追考)Vikingur Olafsson「J.S.Bach」オルガン・ソナタ 第4番 第2楽章

1枚のディスクに4記事も費やした、ヴィキングル・オラフソンのバッハ作品集のレビュー。
冬の自由研究とばかりに書きまくって気が済んだつもりだったけど、沼は深かった…。

どこをとっても美しいこの作品のなかで、ひときわその極にあるのがこれ。

「オルガン・ソナタ第4番 BWV.528~第2楽章(ストラダル編曲)」

この演奏は本当にすばらしい。
ものすごく純度の高いバッハなんだけど、でも同時に、ジャズでしょこれは!とも思った。
細波からはじまり、波濤にまで至る深いレンジ。深い満ち引きの先にある、目の眩むようなクライマックス。
即興演奏が10分15分かけて造り出すような音の愉悦を、たった5分半の短さ、踏み外してはいけない楽譜という制約がある中で、彼は創り上げてしまった。
それがあまりにも美しいものだから、この美はどこからくるのか?なんて疑いもしなかった。

最近、こんな動画にいきあたった。同じ曲の弦バージョン、演奏はロンドン・バロック。

音がいい。そして、スクロールする映像が愉しい。声部の動きを可視化するとこうなるのか。

次に「オルガン・ソナタ」としてのちゃんとした元曲が聴きたくなり、見つけたのがこちら。

オルガンはケイ・ヨハンセン。楽譜を見ながら聴けるのがありがたい。

この2つの演奏は、どちらも端整で穏やか。
バロック時代のアンダンテとしてはこっちが本当なんだろう。抑揚たっぷりなオラフソンの演奏が大胆なのであって、いやでも、それにしてもずいぶん静かな…
で、気がついた。静かっていうか、音が少ない。
いや、むしろオラフソンの音が多いと言うべきか。

明らかに違うのは、終盤のクライマックスにあたるところ。
(オラフソン 4:10〜、ロンドン・バロック 4:16〜、ケイ・ヨハンセン 4:00〜)
オラフソンひとりだけ音数が多く、レベルの違う華やかさだ。

さすが、「編曲:俺」、天才のやることはハンパない。
安易に納得しかけたけど、オラフソンが編曲したのは別のカンタータであって、この曲の編曲者はストラダルだ。ストラダルが、他の版にはないカデンツァ(と言っていいのかな)を書いた可能性も、ゼロではない。もしそうなら、ハンパない天才はストラダルのほうじゃないのか。

結局どっち?オラフソン?ストラダル?
気になる。気になって夜しか眠れない。朝、目が覚めて、そうだ楽譜を探そうと思った。

楽譜探すならIMSLP。通勤中にスマホで検索したら、あっけないくらいにあっさりと見つかった。このリンクから、楽譜の項のタブを「Arrangements and Transcriptions」に切り替えると、ストラダルのバージョンがトップに出てくる。

さて、そうして楽譜と演奏を合わせてみた結果。やはりというか、ストラダルの楽譜に、あのクライマックスは書き込まれていない。
つまり結局は最初に思った通り、オラフソン自身による改変なんだろう。

ストラダル_IMSLP96359-PMLP152884-Bio_Sonata_No4_in_Eminor_BWV528_P9.jpg

抜粋はフルスコアのページ番号13、2段目から。線で囲んだ部分が改変された箇所になる。
赤は右手パートに改変が加えられた箇所。聴けばすぐに違いがわかる絢爛豪華なアルペジオ。揺るがすようなffの低音部とあいまって、まるで大花火を打ち上げるみたいな迫力だ。
緑は左手パートの改変。音程は変えずに、ユニゾンにして下方へ厚みを増している。

右も左も同じ長さ、正味2小節ずつの改変。派手な右手が当然目立つのだけど、何度か聴くうちに左手の方が気になってきた。

この曲の低音部は、まるでジャズのウォーキングベースのように、ずっと8分音符を保ち続けている。改変部分だけが16分音符、つまり倍速になり、その先は休符を挟んだ4分音符の間隔、つまり半分の遅さになる。

楽譜では、倍速の部分で一旦ユニゾンを解くことになっている。密度が増した分だけ厚みを抜くべき、とストラダルは考えたのかもしれない。それはそれで合理的とも言えそうだけど、オラフソンは、解かずにユニゾンで突き進むことを選んだ。倍速で、かつ、重さも厚さも手放すものかと言わんばかりに。

曲の終わりに向かうこの部分には、いくつものコントラストが重なっている。
「倍速」から「半分」へ、「速→遅」のベースの変化。
「ff」から「p」へ、「強→弱」の音量の収束。
即興的な「カデンツァ」から、飾り気のない「主題」へ、「華麗→静謐」への回帰。

彼がこの曲の中で楽譜を逸脱しているのはここだけだ
※アルペジオ記号を無視しているところはあるけど、手が届くならしなくていいのだと思う。
ここに右手、左手それぞれの改変を加えることで、彼はもうひとつ「高→低」というコントラストを付け加えた。しかもそれによって、「強→弱」のコントラストをより効果的に際立たせることもできる。

この改変は、奏者が技巧を見せつけるためのエゴではないし、山場だから盛り上げてやれという気まぐれでもない。派手さだけなら右手だけでよさそうなところを、左手も改変して均衡をとった。
これは、音楽そのものの完成度を一段高いところへ引き上げ、ここにある5分半の全てを、より堅牢に美しく組み上げるための仕掛け。
そういうことではないだろうか。
あくまで推測ではあるけれど。

そしてここからは、さらに空想混じりの別の見方。

楽譜を見つけてキャーキャー喜んでいたら、TLでこんなことを教えていただいた。

コンサートの時「ある日ラジオを聴いていたらこの曲が流れてきて、この世で一番美しい音楽だと感じてスコアを探した」と言ってました。

そして、コンサートではこれがアンコール曲だった、とも。

「この世で一番美しい音楽」 。
それは一番といわれても唯一ではない。きっと人の心の数だけ、あるいはそれ以上に、ほとんど無数に存在する。
行きずりに耳を掠めて消えていくものも、たった一人だけを救って、永遠に誰とも分かち合えないものもある。自分がこれこそは…!と胸を震わせているのに、隣で聴く人には、いや特にそれほどでも、だったりもする。
輝かしい言葉で語られる割にそれはとてもあやふやで、極端に言えば何でもよくて、主観的すぎて、他人にとってはまるで説得力がないものだ。
普通は。

でも、普通じゃないことが、ごくたまに起こりうる。
例えば、この世で一番美しい音楽が、本当にそう弾けてしまう人に届くことが。
そしてその人が、この美を形にしたい、楽譜の先に行ってまで突き詰めて表現してみたい、と本気で思ってしまうことが。

それにしても「ラジオを聴いて」だなんて。そんな、まるで恋に落ちたみたいな、啓示のような、出会い方をしたのか。

彼もスコアを探すのに、やっぱりIMSLPに当たったのかもしれない。見つけた瞬間は嬉しかっただろうな。
ただ、彼はスコアを手に入れて、譜面通りに弾いて完成にはしなかった。4小節の改変を書き加えて、この曲を自分だけの音楽にした。
彼にそうさせたものは何だったんだろう? 恋情、敬虔さ、独占欲、完璧主義。いろいろ勘ぐることはできなくもないけど、それは多分、限りなく野暮だ。
理由や理屈が何であろうと、ここに両手を添えたのは彼の愛ゆえ…であって、その結果、形になったのがこの音楽。そう思うと、ここまで突き抜けて美しいのも無理はないな、と、思わず納得してしまう。

始まりから結果まで、全てが奇跡みたいだ。

おまけ。
改変とも言えないほどの小さなオリジナリティ、細かすぎて伝わらない私の愛着。
珍しく無視していないアルペジオ、ここの音の立ち上げ方、めっちゃ好き。かっこいい。
ストラダル_IMSLP96359-PMLP152884-Bio_Sonata_No4_in_Eminor_BWV528_P8.jpg

さらにおまけ。
オラフソンの演奏を、ジャズじゃないか!と思ったのは、BMのこの演奏を思い出したから。
テーマの扱い方、振れ幅の広げ方や、高低の対比が際立つクライマックスの恍惚感、終わり方まで、どこか似ていると思った。

演奏時間は11分、5分半のちょうど2倍。
それだけの尺を使って全てを一から創り上げ、二度と同じものは弾かないと、旅の先々で満場の聴衆に約束し続ける音楽。
無数にあるであろうバージョンのうちのひとつであるこれも、私にとっては「この世で一番美しい音楽」のひとつに聴こえる。

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